2012年5月16日水曜日

コンピュータの遍歴(その1)

さて、保兵衛とコンピュータとの出会いの物語をけふはせんとおもう。

情報処理技術者試験のテキストにはENIAKとかが最初にでてくるが、保兵衛が生まれる(生年は1952年)まえ(?)の話でよく知らん。最初は電子計算機とかいって話題になったのは、確か保兵衛が高校生の頃(1960年代後半)だと記憶している。電気の力で加減乗除ができるといった程度で、将来的にはもっともっとすごいことになる予感があった。大学進学も電気・電子工学科を目指したが学力が追いつかず、浪人せずに化学(ばけがくと称していた)系の学科に1970年に入学してしまった。(ちなみに1969年は東大の入学試験が学園紛争の影響でなかった年)。

大学の1,2年の頃の教養課程で物理学実験のレポートを作るのに、当時は電卓はなく、丸善の「対数表」で実験データを整理した覚えがある。またタイガーの手回し計算機(歯車みたいなものがたくさんついているやつ)も当時使われていたようだが、保兵衛は使ったことがない。計算尺というものもあったが、大学では使った覚えはない。



大学3,4年の専門科目が出てきたころ、Sharpの「関数電卓」で、当時は液晶パネルでなく電球菅で数字を表示するタイプで結構高い買い物であった。4年で研究室配属となり、卒論研究をすることになったが、入った研究室がたまたま「化学工学」研究室で、当時には珍しく、パラメトロン真空管(どんな真空管か理解していなかったけど)を使った電子計算機を使える環境にあった。大学ではずっと日立の計算機を導入しており、大学4年にHIPAC103というマシン(紙テープでOSや自作Fortranアプリを作っていた)、その後大学院1年にやっとICとかLSIとかのマシンHITACマシン(紙のカードを利用)を使える環境となった。いわゆる大型汎用計算機が大学の共通利用センターに導入され始めたころのこと(1970年代半ば)にあたる。

研究室では、すでに物故されているが恩師の山田幾穂教授の指導のもと、蒸留分離操作の数値計算(蒸留計算)をFortranでコード開発し、学会発表などをもっぱらしていた。当時のFortranは、Fortran IV(フォー)という水準で、加減乗除は現在とほとんど変わらず、入出力やラベル、分岐、コモンといった部分が今に比べるとOld-Fashionであるが、それほど劇的には変動していない。

1976年に大学院卒業し、エンジ企業に入社したが、企業でも大型汎用計算機(IBMマシン)が全盛の頃で、やっと当時の秋葉原でボードPCが流行っていて、NECのPC8001(8ビットCPU)が発売されたのを購入し、アセンブラでインベーダーゲームを楽しんだ記憶がある。アプリはN88-BASICという言語で作ったものだ。コードは音楽用のカセットテープで保存し、「がーがーピーピー」と読み込ませていた。その後PC9801(16ビットCPU)で8インチのFDD(Floppy Disk Drive)に変わった。そのうちMS-DOS、Windows 3.1がマイクロソフトから出て、アプリの開発もBASIC、PASCAL、C、Fortranなどの高級言語が利用できるようになった。MS-Fortranではコンパイルするのに2パスでFor1,For2の2回通す必要があった。

エンジ企業でも、大型汎用からダウンサイジングの方向にあり、WS、ミニコン、PCなどに技術計算は以降していった。中国のプラント建設現場に、ポケットPCを持ち込んで計算(プロセスシミュレーション)を実行したことがある。以上が1980年代半ばの状況である。

今日はここまで。続きは「コンピュータの遍歴(その2)」を参照。


(注)商標、会社名など勝手に利用していますが、ご容赦願います。間違い・記憶違いがあるかも知れません。
(注)HIPAC103の話は、山田幾穂著「化学工学のための数値計算法」、槇書店(1982)にあります。

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